昭和四十八年五月二十一日 朝の御理解
御理解第六十五節 【日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は使い勝手のよいのがよい家相じゃ。よい日柄というは、空に曇のないほんぞらぬくい、自分に都合のよい日がよい日柄じゃ、いかに暦を見て、天赦日じゃと言うても、雨風が強うては今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。】
教祖様の..生きられ方というなこと申しますが、教祖様はもう一事が万事にこのような受け方頂き方をなさって、え..おかげを受けられた方だとね。
普請作事は使いがってのよいのがよい家相じゃと、あちらの家はなかなか勝手がいい。
あすこの家は勝手が悪いと、例えば言うてあっても、教祖様の場合であったら、どういう例えばお家に住まれても、最高に使い勝手の良い、有り難いお家と頂かれたに違いないですよね。
家はもう使い勝手が悪いなどとは思えなかった、もうどういう例えばお家に入られても..ね、素晴らしい使い勝手の家だ、有り難い、勿体無いお家だと頂かれたでしょうから、そこには、もう使いがっての良いのが良い家相じゃと、もう全部が良い家相と言う事になるわけ..ね、そこんところを、例えば、ああそんなら使いがっての悪いとは、悪い家相じゃろうかと、こう普請が起こりそうな感じがしますけれどもね。
いわゆる教祖の物の見方、感じ方というのが、ああね、いわゆる生きられ方というのがそのような頂き方をなさった。
日柄.良い日柄というは、空に雲のないほんぞらぬくい、自分に都合の良い日が良い日柄じゃとこう仰っておる、自分に都合の良い日柄が良い日柄じゃと、もう教祖様の場合は降れば降る、照るは照るで有難うお受けになられたに違いないです..ね。
もう何時も丸っきり自分一人の為に、雨が降っておるにであり、自分一人の為にお天気になっておるのであるというような、実感の中にお過ごしになったのじゃなかろうかとねだから自分に都合の悪いと言う事が、全然ないという生き方なんです。
ここでも、私はそれを感じます...ね。いつもが自分の為にある、今日なのだ、私のために雨が降っておる、私の為にお天気になってくださるといったような、私はそういういわゆる頂き方をなさった、いかに暦を見て天赦日じゃというても、雨風が強うては今日は不詳のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。
(笑う)...もうこれはね、いわゆる、例えば降ろうが照ろうが実を言うたら、良い悪いはないのだという.もうそこの抜けたような頂き方です..ね。
そこんとこに私は御道の信心の偉大性というものを感じます、これは、あらゆる宗旨、宗派のことを思う.見ても思いましてもです..ね、やはり様々ないうならば.天地の事にしんかねあてたような、それを学問的なものにまでして、それを宗教の中に取り入れてあるという宗教が殆どでございますよね。
私は昨夜の御祈念の時に、あの..例えばキリスト教とか、仏教とか様々な.まあ世界のまあっ大宗教と言われる宗教が幾らも有りますけれども..ん..
キリスト教のいわゆる一神教ですね。一つの神、あれはモーゼという人が、天恵を神様から、いうならば、受ける時に《この神だけしか拝むことは成らない。》ね、もう神はこの神だけだ、いわゆる一神教なんです、そういう掲示を受けておるですね。
ですから世界中にあらゆる宗教やら、いうなら拝む対象というものを持っておる、沢山の人間がおるが、これはもう全部間違いだという所から、いうなら世界の真の平和を願っておる、平和を願っておる、おりながらです、自分の宗教にならなければ平和にならないんだと決め付けてある、だから闘争がいつも絶えない、戦争がいつもあっている訳です。 もうこの一神教にしてしまわなければ、でないものは、もうそれこそ殺してでも、あの.平和になろうとこう、いうのがキリスト教ですよね。だからもうキリスト教がある限り闘争は続くです、いつでもどこにか戦争が、いわゆる宗教戦争と言われる、戦争が続くのです、私.色々考えよったら恐ろしい宗教だなあと思うた。
昨日も菊栄会が終わってから、あすこ四.五人の.あの..私が休んどるところにやって来てから、あのあすこに地球儀をおいとりますから、あの地球儀.何かいろいろ話させて.頂いておったんですけれども、本当に私共和賀心時代を創るというような、あ..世界中にという.とてもとても.本当に.え.日本あ.日本という国があまりにも小さい国ですから、こら大変なことだぞというに、あの地球を頂いて改めて思うた。
けれどもほんなら、あのキリスト教はほなら世界のどこの国ぐにもう端、番地といわれる所にでもキリスト教の教会があると言われるくらいですからね、ですからやっぱり.そら.あの..出来ない、不可能と言う事ではない、しかも今申します様に、もう絶対の.絶対と言うと可笑しいんですけれどもね、和賀心というな.金光教によってでなくたっていいと言うのですから、信心はなくても、拝まなくてもいいと言うんですから、私最近言っておる、いわゆる.ね.例えば昨日の御理解で言うならね、天地日月の心になること肝要だと..ね。
いうならば、大地の心に徹するいうことだけ.でもです.ね、一人でも物が出来る御陰をほら「金光様」言わなくたって、え..御祈念をしなくたって、お取次ぎを頂かなかっても..ね。一人でも物が出来るような御陰が.頂かれるというんですから..ね、大地の心にならせて頂くという事..ね、その上に、天の心が解り、天の心、いわゆる限りなく与えて与えて、止まないていうか、限りない麗しの心とも申しましょうか、そういう心が頂けることになったら、ご神徳を受ける世界があるという風に、この頃は皆さんに聞いて頂いてるですね。
だから私はその事をね、夕べも色々話した後、皆が帰った後に又あの御祈念させてもらいよった、そしたら、大体、一神教とか他神教とかいう様々なその言葉を持って、自分ところの宗教はこうだ.ああだいうけれども、だいたい金光教も色々に言われております。
けれども..ん..金光教の信心はだいたいどんな信心だろうかと、どういう風に言ったが一番間違いないだろうかと私は思うたら、御心眼にね《大きなかぼちゃと小さいかぼちゃ》を頂いた、もう天地は馬鹿んごた、私どもだから馬鹿んごとならさえすればよいちゅう。もう底がないですだから、そこにです、例えば今日の私が六五節の御理解の素晴らしさを感じますですね。
もう降るから照るからということでもなからなければ、家相が良いとか悪いとか.てなことではない、使い勝手のよいのが.よい家相じゃと、信心させて頂きよって段々有り難うなっていって、大地の心が身に付いて来るようになったら、こげな使い勝手の悪か所とたとえば、人が思うてもほなら私自身は、素晴らしいことなのですから..ね。
本当にあの椛目時代の一番はじめにあの..ん..改造があってから、あの外の方.廊下からつたいに外側にお便所がありました。そこには電気が付いていませんでした。それがあの小さい電気が一つ点くようになりました、もう私あの廊下を便所に行きながらずーっとあの便所.拝みながらあの入った。もう便所の扉にも扉が.あのそれこそ.神様の扉も便所の扉も同じです、もう御いさみがかちかち付きより.ついとりました...ね。
今のような、例えばこういうなら水洗便所で、あかあか電気がついてていうのじゃないです、だからもう何処にでも有り難し、というものが感じれれるように、私共なることがお道の信心なのですから、今日の私が六五節から、このねっ.え..使い勝手の良いのが良い家相じゃとか、自分に都合の良いのが良い日柄じゃとか、もう底が抜けてるでしょうが..ね、今日は困ったとか、今日は都合の悪かとかいうことは絶対ないのですから、私共がお道の信心で頂きますと、大地の例えば心にならせて頂きますと、私の為に降っているのだ、私の為に今日は照っているのだ、となるのですから、成る程天地の親神様も.自体がです、もう馬鹿のように、無条件に御陰をくださってある神様です。
又それを私共が又無条件に、もう何もかにも一切を有り難く受けていこうという.いう信心ですから多神教もなからなければ一神教もない..ね。只、もういうならば肯定もなければ否定もないという宗教です。そして底がない、限がない、だからいわゆる無限のそういう素晴らしい例えば、ほな.教えを持っており、そういう教えによって私共がいわば教祖の神様が感じられたであろうと思われる、その感じ方が出来るようになる稽古なんです..ね。
はてあーた、暦ちゃんとその今日は..三隣亡、今日は大安という風に書いちゃあるけんやっぱそれを実行しなければ、気色の悪か、という間は金光様の御信心を頂いてないということです、まあだ有り難いのが足りのんだということです。有り難くならせて頂くのがいつもが良い日柄であり、いつもどのようなお家に住まわせて頂いておっても、小さければ小さい、大きければ大きいで、それこそ水の流れるに不平もなからなければ不足も有らずということになってくるのです..ね。
もうまるっきり水の流れのような、私.生き方、そういう信心、そこをそのように有り難いで受け止めなければ、受け止めなければならんのではなくて、受け止めなければおられないほどしの心をお育て頂くのが、お道の信心だと..ね、そこにはだから大安もなからなければ.あ..三隣亡もないということになる、あっ.扱いにっかろ.あのお家は住む.住まい変え.にくいと、例えば言うてもです、それこそ..ね、月がさし込むような、あばら家に住んでおっても勿体無いな、と言えれるようになるのが金光様の御信心なのですから。
なるほど、神様があの大きなかぼちゃと、小さいかぼちゃを下さった、かぼちゃということはまあ馬鹿の代名詞ように申しますね、ですからそのような教祖さまの生きられ方ていうのはそういう生きられ方なさった、だから私共もやはりそれに神習わせて頂くということなのです..ね、だからそういう素晴らしい、んなら実際の体験をですよね、自分が頂いて、私一家に頂いて、それを広げて行こうというのですから、もうどんなに素晴らしいその理論を以って、又は.ご利益ならご利益だけを以って、え..広めていこうとする宗教よりも、もう一番素晴らしい内容を持っておるという事に成るわけですね。
けれども、そういう..大願も言わんでよい、三隣亡も言わんでよい、そんなことでよかじゃろうかと心配する人に心配せんですむように、私共が御陰を頂いて、現していけばよいということになるのです..ね、その自分の頂いておる御陰をです、自分の心の中から、家庭から、自分の周辺に広げて行こうというのが和賀心時代を創る.って行く、私はいうならば、あ.商品見本のようなものを作っておるようなもんだと、それを沢山.あらゆる角度から、そういう助かり方の人達の見本を引っ下げてです、世界真の平和に貢献させて頂こう、ていしんさせて頂こうというのが、和賀心時代を創る.いわば運動ということになるじゃない、そこには争いもなからなければね、勿論ね、血を見るような闘争もある筈がない..ね。
たとえば、ほなら仏教なんかの.あれ宗派なんか.しゃくふくなんかていうて、もうまるっきり、戦車でごろごろ何でんかんでんうち崩して前に進んで行くという行き方の、あの仏教の中にはそんな教えもあるでしょう..ね。そういうようなことではない、だから問題は私共自身がです、この六五節現れておる.え.まあ.何.こん中からまあ.抜きまして、皆さんに聞いて頂いたように.教祖の生きられ方というのはもう、良い日柄も、悪い日柄もないもうみんな自分に都合の良い日であり、良い家相も、又は悪い家相もない、もう全部が良い家相だという.そういう頂き方の出来れる信心生活をいよいよね.お互い進めて行かなければ成らんということになります。......どうぞ..
渕上順子